「食堂まで、自分一人で行ってみたい」 「天気が良いから、少しだけ外の空気を吸いに散歩へ行きたい」
車いすを利用する高齢者にとって、「自分の意思で、好きな時に、好きな場所へ行く」ことは、当たり前のようでいて、実現が難しい願いでした。職員に「押してもらう申し訳なさ」を感じたり、人手が足りずに移動を諦めたり。そんな経験が、高齢者の行動意欲や社会とのつながりを、少しずつ奪っていきます。
しかし、その状況を「自動運転」のテクノロジーが、劇的に変えようとしています。
空港や病院で実用化が進む「自動運転車いす」が、ついに介護施設にも導入され、大きな成果を上げ始めています。この記事では、介護現場で活躍する自動運転車いすの具体的な導入事例と、それがもたらす驚くべき効果についてレポートします。
1. 「移動」の概念を変える、自動運転車いすとは?

介護現場で活用される自動運転車いすは、利用者が自ら操作する電動車いすとは異なります。その最大の特徴は、あらかじめ設定された目的地まで、ボタン一つで、誰も付き添うことなく、安全に自動で走行する点にあります。
最新技術が可能にする「安全な自律走行」
自動運転車いすには、自動車の自動運転にも使われる最先端のテクノロジーが搭載されています。
- 自己位置推定技術(SLAM):施設内の地図情報を記憶し、センサーで周囲の環境を認識することで、自分が今どこにいるかを正確に把握します。
- センサーによる障害物検知:人や障害物が前方に現れると、自動で減速・停止。衝突の危険を回避します。
これらの技術により、利用者は複雑な操作を一切行うことなく、ただ目的地を選択するだけで、安全な移動が可能になるのです。利用後は、車いす自身が自動で待機場所(ポート)まで戻るため、職員が片付ける手間もありません。
2. 介護現場における具体的な導入事例と3つの効果
2025年5月、神奈川県川崎市のある特別養護老人ホームで、全国で初めて自動運転車いす「WHILL」の本格的な運用が開始されるなど、導入事例は着実に増えつつあります。その活用から見えてきた、3つの大きな効果をご紹介します。
① 介護職員の「負担軽減」と「生産性向上」
施設内での移動介助は、介護職員にとって大きな負担です。特に、食事や入浴の時間には、多くの利用者を一斉に食堂や浴室へ誘導する必要があり、多大な時間と労力を要していました。
自動運転車いすは、この課題を直接的に解決します。利用者が自ら車いすに乗って目的地へ移動してくれるため、職員がマンツーマンで付き添う必要がなくなります。
ある導入施設では、職員が複数の自動運転車いすの動きをタブレットでまとめてモニタリングし、安全を確認しつつ、その間に他のケア業務を行う、という新しい働き方が生まれています。移動介助にかかっていた時間が削減されることで、職員はより専門的なケアに集中でき、施設全体の生産性が向上します。
② 利用者の「自立促進」と「QOL向上」
自動運転車いすは、利用者の心にも大きな変化をもたらします。
- 心理的負担の軽減:「職員さんに悪いから」と移動を遠慮することがなくなり、「自分の意思で動ける」という自信と自立意欲が向上します。
- 行動範囲の拡大:これまで一人では行きづらかった施設の談話室や中庭へも、気軽に足を運べるようになります。移動が活発になることで、他の利用者や職員とのコミュニケーションの機会が増え、社会的な孤立を防ぎます。
- 家族との時間の充実:面会に来た家族と一緒に、職員の手を借りることなく、施設の周りを散策する。そんな新しい時間の使い方も可能になります。
③ 「転倒リスク」の低減による安全確保
車いすへの移乗後、目的地まで移動する間の転倒事故は、施設にとって大きなリスクです。自動運転車いすは、安全な速度で、障害物を回避しながら走行するため、ヒューマンエラーによる事故を防ぎます。職員が付き添えない場面でも、安全な移動が担保されることは、利用者と施設の双方にとって大きなメリットです。
3. 「集団移動」も可能に?自動運転車いすの未来
自動運転車いすの進化は、まだ始まったばかりです。将来的には、複数の車いすが自動で列をなして移動する**「隊列走行」**技術の実用化も期待されています。
これが実現すれば、朝の食事の時間に、各居室の利用者を乗せた車いすが、順番に自動で食堂へ向かう、といった光景が当たり前になるかもしれません。職員は、最小限の人数で全体の安全を確認するだけでよくなります。
4. まとめ:テクノロジーが「行きたい」という気持ちを後押しする
自動運転車いすは、単なる移動手段ではありません。それは、介護職員を身体的な負担から解放し、生産性を向上させると同時に、高齢者から失われがちだった「自分の意思で、自由に行動する」という喜びと尊厳を取り戻すための、強力なツールです。「行きたい」という前向きな気持ちをテクノロジーが後押しすることで、介護施設の日常は、より活気と笑顔に満ちたものへと変わっていくでしょう。
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